(2)驚くうちが幸せ

2023年06月01日

(2)驚くうちが幸せ

 数年前、強風にあおられた車のドアに左手の親指をはさまれてしまいました。涙が出るほどの痛みでした。しかし、爪のおかげで骨には異常がありませんでした。しばらくして爪がはがれてしまいました。ところが、その後に赤ちゃんの爪のような新しい爪が次第に生えてきたのです。毎日、その新しい爪を撫でながら、感動にひたったものでした。こんな素敵な人体ショーが見られるのなら、また指をはさんでもいいなあと考えるほどでした。この年になっても、身体にそんな能力が秘められていたことに感謝、感激でした。頭髪は残念ながらいくらトニックを振りかけ、マッサージをしても若々しい毛が生えてくる気配はありません。毛はなくても、生活に困ることはないからでしょうか。本人は困っているんですが…。親指の爪は、取れてしまうと実に不便でした。自分でシャツのボタンがはめられなくなりました。神さまは本当に細かいことまで配慮してくださる方なのです。

 ある小学校で、「世界の七不思議とは何でしょうか」という問題が出され、みんなは、「中国の万里の長城」とか、「エジプトのピラミッド」という風に答えました。ところが、ひとりの女の子は少し違った答を出しました。

 「私の世界七不思議は、①目が見えること ②耳が聞こえること ③手の感触があること ④味を感じられること ⑤感情があること ⑥覚えることができること ⑦愛せることです」

 この少女にとっては、もっとも身近にある自分の能力が不思議でならなかったのです。

 英語のThink(考える)とThank(感謝する)は語源が同じだそうです。よく考えることが感謝につながるということなのでしょう。逆に、あまり考えないと、感謝することも少ないということになります。イギリスのオックスフォード大学内のチャペルのひざまずいて祈る際の台には「Think&Thank」と書かれているということです。「主の恵みを思いめぐらして感謝せよ」ということです。

 夏目漱石は「虞美人草」の中で、「人間は驚くうちが幸せだ」と書いています。驚きを失って、すべてがあたりまえになったら、もはや幸せを感じる心も枯れ果てたことになります。常に驚きを感じるみずみずしい感受性を保つために、水やりを怠らないでいましょう。

 驚きを大事件や大発見の中に探さないで、平凡な日々の営みの中に、目の前に展開される日常の出来事の中に、見慣れた周りの自然の中に見つけて感動することです。

 手が動く、紅葉が見える、頬に感じる風に季節を知らされる、陽射しを心地よく感じる、虫の声が聞こえる、考えることができる、呼吸している、生きている! それらひとつひとつが奇跡なのです。

 身体の中には血管が網の目のように張り巡らされて隅々にまで血液が送られています。血管をすべてつなぐと十万キロの長さになるそうです。地球二周半です。心臓から送り出された血液は約五十秒で全身を行き巡ります。そのおかげで全身に栄養と酸素が送られて生きることができるのです。この身体の中で壮大な生きるための活動が絶えることなく続いているのです。

 不思議なことがいっぱい…それを英語でワンダー(不思議)・フル(いっぱい)=「すばらしい」と言うのです。最大のワンダー、不思議はその名が「不思議」と呼ばれるイエス・キリストです。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ九・六)

 このお方が、こんな愚かで罪深い者のために来てくださり、十字架にかかって死なれました。あなたや私の罪を背負って身代わりに死んでくださったのです。預言者イザヤは、イエスさまの十字架刑についてそれよりも七百年前にこう預言しました。

「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」(イザヤ五三・一〇)

 このことばを聖書の中に見つけたとき、私は息が止まるほどの驚き、衝撃を感じました。このことばを人間の親子の場合に置き換えてみましょう。

「ひとり息子を苦しめ、傷つけ、殺すことは、その父親の喜びであった」…幼児虐待ということで逮捕されてしまうでしょう。天の父なる神は、そのひとり息子をご自分の計画に従って十字架につけさせ、見捨て、罰し、のろわれたのです。なんという残酷、無情な父でしょう。息子(イエス・キリスト)は、その十字架を前にしておびえ、おののき、「できればこの苦しみから救ってください」と祈りました。「でも、それがあなたのご計画でしたら従います」と、最終的には十字架の道を歩み通されたのです。

 父なる神は、無慈悲だからそんな残酷なことをされたのでしょうか。いいえ、逆に愛のゆえでした。これ以外に私たち人間の罪が赦され、きよめられる方法がなかったのです。私やあなたの罪は罰され、死をもって報われるべきものでした。しかし、神は私たちを赦すために、そのひとり子、罪のないイエスさまを身代わりに十字架につけ、罰されたのです。

これを驚かないで、なにを驚くでしょうか。信仰とは、この大きな愛への驚きの中にあります。