(1)どうせなら楽しく仕事を

2023年05月18日


渡辺和子さんの著書「面倒だから、しよう」の勧めに従って、「面倒だからしよう」を私のモットーに加えました。

 ある日、自宅のトイレで用を足しているとき、ふと心に浮かんだことがありました。結婚以来、トイレ掃除をしたことがありません。当たり前のように家内が掃除をしてくれています。

「トイレ掃除は面倒…だからしよう」

 さっそく家内にそのことを申し出ました。

「すばらしい!やって、やって!」

 家内の特訓を受けて、それが私の責任になりました。

 二年ほど続いていますが、次第に「面倒だからするのはやっぱり面倒だな」といやいやしている自分に気づきました。「面倒だからしよう」と自分の尻を叩くだけでは、動機づけとして弱すぎるようです。

 その時、ふっと浮かんだフレーズがありました。「どうせなら楽しくやろう!」

「面倒だからしよう」+「どうせなら楽しくやろう」=充実した日々

 問題は、どうすればトイレ掃除が楽しくなるかです。ディズニーランドのトイレ掃除の話を思い出しました。深夜に喜々としてトイレ掃除をしています。どうしてそんなに楽しいのか?彼らは、便器の一つ一つに名前を付けて、それらを友人として、話しかけているからというのです。

これだ!我家の便器にも名前を付けよう!名前は…そうだ!数年前に死んだセキセイインコの名前、チッチにしよう!

 「チッチ!久しぶりだね!また会えてうれしいよ!いつも助けてくれてありがとう。いつも汚してごめんね。きれいに磨いてあげるね。さあ、ピッカピカになったよ。今日もよろしく」

 トイレ掃除が少しだけ楽しくなりました。

 「どうせなら楽しく」というフレーズをエサに、いろいろなテーマが食いついてきました。

「どうせなら楽しく」の新しい連載が生まれた瞬間です。トイレ掃除からスタートしたシリーズです。

 「楽しくなくちゃ、やりたくない!」

一緒に働く若いスタッフが、さらりと言ってのけました。カチ~ンときました。なんと甘っちょろいことを!楽しくないこともいっぱいあるぞ!楽しくなくても、それをやるのがクリスチャン献身者だぞ!歯を食いしばって、苦しみに耐え、貧しさに耐え、批判に耐え、難しい仕事に耐えに耐えて働いていた私でした。「楽しくなくても、やらなくっちゃあ!」と叱りつけました。気まずい空気が流れました。世代のギャップだなあと、あきらめの気持ちにさせられました。

 そんな出来事から三〇年近くが経過して、「どうせなら楽しく」という題で連載を始めようとしている自分をこっけいに感じています。あのスタッフの言葉がずっとのどに引っかかって、気になっていました。やっとのどの骨が取れたようです。彼の方が正しかったのです。

 「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」第二コリント九・七

 牧師の仕事は多岐にわたりますが、その中で最も困難な事は説教です。二二歳から講壇に上がって説教を始めましたから、すでに半世紀が経過したことになります。しかし、未だに説教は恐怖であり、緊張を強いられ、脚がガクガクしています。(もっとも、このガクガク感が失せた時が、講壇から下りる時だと決めています)

気に入っている逸話があります。昔、迫害の時代に捕えられ、断頭台で処刑されようとしていた牧師がありました。首切り役人が尋ねました。

「お前、これから首をはねられようとしているのに、怖くないのか?」

「いいえ。説教のために講壇に上がる恐怖に比べたら、こんなことぐらい!」

ある牧師が、説教準備に行き詰まりうなっていました。そばから奥さんがつぶやきました。

「女の産みの苦しみに比べれば、たいしたことないわ」

「おまえはいいよ。あるものを産み出すんだから。私は何もない中から、産み出さねばならないんだよ」

私も、説教準備にうなり、説教直前は恐怖で震えています。必死に自らを励ましています。「幹雄よ。おまえは主の前に高価で尊い存在だ!愛されているぞ!主が、お前と共にいてくださるのだ!勇気を出して、今日のみことばを語れ!」

そんな恐怖に満ちた仕事を、なぜ続けているのでしょうか。もう限界だと無力感に捕えられ、逃げ出したいと思うことがしばしばでしたが、そうした困難を補って余りある喜びが、そこにあるからです。

パウロは、神の言葉の宣教者として、神に捕えられ、遣わされて、人々の前に立たされました。その道は苦難の連続でした。その困難さに、叫びます。「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」(第2コリント二・十六)文語訳「誰かこの任に耐へんや。」

 しかし、彼はその任に耐えることができました。その苦難を超える喜びがあったからです。みことばをもって仕えている人々の存在が、彼の喜び、誇りの冠、生きがいでした。(第1テサロニケ二・一九~二〇、三・八)何よりも、主からの「よくやった。良い忠実なしもべだ」とのお言葉をいただき、義の栄冠を受ける楽しみが、彼を支えたのです。

 ここに、希望に満ちた私の喜びもあります。