(1)ていねいに生きる

2023年05月18日

「あけおめ~」「ことよろ~」

元旦礼拝に来た若者たちに新年のあいさつをすると、返ってきたことばです。それが、「あけましておめでとうございます」「今年もよろしくお願いします」の略だと気づくのに少し時間がかかりました。若者たちの携帯メールで使われていることばだそうです。私を若者の仲間として認めてくれたのなら、ちょっとうれしいのですが、また心配でもあります。大切なあいさつことばをそう簡単に縮めていいものか? きちんと挨拶できることが、人間関係の基本です。ていねいで美しいことばに接すると、心にぬくもりが与えられます。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」エペソ4:29

「聞く人に恵みを与える」ことばを語れとパウロは書いています。そんなことばを豊かにたくわえ、時宜にかなって語れる者となりたいものです。ことばが貧しくなることは、心が貧しくなることなのです。

 人の心には「ことばの引き出し」が備わっています。そこにどんなことばをたくわえているかで、その人の生き方が決まります。人はどうしたことかそこに「人を殺すことば」をせっせとたくわえてしまいます。傷つけられたことば、冷たいことば、差別されたことば、軽んじられたことば、誤解されたことば、否定されたことば…。それらを事あるごとに引っ張り出しては、ため息まじりに読み上げ、薄れかけた字はまたくっきり書き直してはしまいこむのです。人はことばで生き、ことばで死ぬこともあるのです。

 今度のごみ収集日に、そんな「殺すことば」を全部、ゴミ袋に放り込んで、出しちゃいましょう。

 そんなことできるのかって? できます!イエスさまにそれを全部持ってゆくのです。どうやって? お祈りです。

 「イエスさま、私はこれまで、自分はだめだ、おちこぼれだ、生きる値打ちもないと言ってきました。今、そんなことばを全部、あなたの前にさらけ出します」と。

 イエスさまがそれを全部、処理してくれます。

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」イザヤ43:25

 私の少年時代、青年時代には、心の引き出しには殺すことばがぎっしりでした。「私なんか誰にも愛されない」「私は生まれなかったほうが良かったのだ」「私の将来は絶望だ」「私なんか死んだほうがいいのだ」「私には何のいいところもない」「大きくなったらきっととんでもない失敗をするだろう」「結婚してもきっと離婚する」

 ところが、十八歳の秋に教会に行って、生かすことばに出会い、受け入れました。聖書が生かすことばの宝庫であることを知り、それを探し、それを自分の引き出しにせっせとたくわえはじめました。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4

この一つのことばがあるだけでも私の人生は変えられました。劣等感のかたまりで、いつも他人と比較しながら、落ち込んでばかりの人生から、胸を張って、前向きに生きられるようになりました。

最近深く味わわされ恵まれたみことばを一つ、紹介しましょう。

「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」ローマ人への手紙11:36

「すべてのこと」ですから、そこに「私」も含まれています。

 私は、神から発し…私が誕生したのは偶然でなく神によって!

 私は、神によって成り…私を生かし、支えて下さる神がおられる!

 私は、神に至る…私の生きる目的は、神の栄光のため!

 ゴーギャンの最高傑作と呼ばれる作品を思い出します。その題名が「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」です。その作品を書き終えて、彼は自殺をはかりました。未遂に終りましたが、この絵が彼の最後の作品となり、最高傑作となりました。その絵には、彼が問い求めた人生究極の質問の答えは何も見出せていないことが明らかです。その答えは、南の島ではなく、聖書の中にあったのです。